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スピリチュアルが嫌われる理由② 「二極化」という名の裁判で、バッサリ排除

以下、ブログ記事より転載






「あるがままに…」ブログさんから、転載です。
前回のテーマの続きです。

(以下、転載)



2014-02-05
テーマ:スピリチュアル批判



スピリチュアルが嫌われる理由、それは一口に言えば、こういうことだと指摘しました。


自分が本物でもなければ人格者でもない、一介の未熟者に過ぎないのに、
自分が信じるスピ思想に基づいて、上から人々を裁き、見下し、排除しているからです。



このうち、前段はともかく、後段の「裁き、見下し、排除」という意味をこれから説明します。

前回、スピが多用する「二極化」という言葉の持つ「詐欺的側面」について指摘しました。簡単にまとめますと、二極化してるかしてないか証明できないものを前提として、我々に「二択」を突きつけるその手法が「詐欺と同じ」だということです。

「二極化」という思想にはもう一つ、重要な側面があります。

それが、「二極化」という言葉を巧みに使いながら、周りにいるその他大勢の人間達を「裁判」によって「仕分け」し、高次元から我々を見下して、切り捨てているということです。彼らがどれだけ否定しようとも、「二極化」という言葉にはそういう意味があります。


先ず、スピ職人・スピ商人(私の師匠が考案した素晴らしい言葉で、スピ職人の親玉みたいなものです。スピ職人は大抵稼ぎがイマイチですが、スピ商人はビジネスに長けており稼ぎが相当宜しいです)たちが主張するところの「二極化」とやらをちょっと調べてみますと



今、この世界では二極化が一段と進行しています。
スピリチュアルに目覚めはじめた人達がいる一方で、そのような世界と無縁な、目覚めない人達がいます。
毎日不平不満の中で苦しみながら生きている人と、そういうネガティブ意識から抜け出し、宇宙の愛に目覚め新しい人生を歩み始めた人がいます。




だいたいどのブログでもこんな感じです。目覚めた・目覚めない、ポジティブ・ネガティブ、あるいは自己啓発系ですとこれが成功者・搾取される側、勝ち組・負け組といった2極に分けてます。

2極に分けた時点で既に心の赤信号を灯して頂くのが、人としてまともな精神の在り方です。人間、そう簡単に二つに分けられないよ?という疑問を持つべきです。・・・という話を、前回、致しました。

ここまででしたらまだ、腹も立ちません。自分が信じるものは、自分で決めるしかない。たとえこちらに「地球は今、二極化が進んでいるんだよ!」と言われたところで、こちらが同意するかどうかはこちらで決めます。こちらが興味を示さなければ、向こうも無理に、二択を迫ることはないでしょう。


スピリチュアルがどうしようもなく失礼な話はここからです。



目覚めた方は、自分の生き方を大切にするようになっているので、目覚めない人との波動がますます合わなくなっていることでしょう。
傍にいるだけで嫌な感じがする人など、そういう周波数の全く違う人との関わりは、極力持つべきではありません。

そして、精神的に波動の合う人との関わりのみになっていき、やがて波動の違う人々との世界との関わりが消えていきます。

一見同じ世界に住んでいるような錯覚をしていますが、みんな波動ごとに階層があり、やがて目に見える形ではっきりと分離していきます。
ですから、どちらの世界を取るかは本人次第ということになります。
しっかりと見極め、どういう世界に住みたいのかを考え、どのような人々と関わっていくかを自分自身が選択するようにしてください。




ブログ毎に若干ニュアンスは異なりますが、概ねこんな感じです。スピ業界人はすぐ「波動」とか「周波数」とか言い出すんですが、要は普通に「波長が合うか」「ウマが合うか」ってことです。

これは、何を言っているのかというと、「二極化がどんどん加速しているのを感じる!」=「目覚めた我々はどんどんポジティブになり、目覚めない人達はどんどんネガティブになっていく」あるいは「目覚めた人達がどんどん引き合い、目覚めない人達がどんどん遠ざかって行く」という意味なのです。
彼らが「二極化が加速度増してるのを実感する」とブログに綴れば、その人の目には世界はそういう風に映っているということです。

これは見方を変えれば、こちらこそ先に、そう思っているのです。アセンションだ二極化だとか言わなくとも、スピリチュアルにハマッた人が完全に「あっち側」に行ってしまった・・・・と残念に感じている、これも二極化と言えそうです。でも、彼らに言わせれば、これは二極化ではない。
二極化とは、あくまでも


スピリチュアルに目覚め、高みを目指して上昇する我々と、

目覚めることなく地を這うようにしがららみに絡め取られて苦しみ続ける、自分とは関係のない人達


・・・そういう目で、私たち一般人を見ているわけです。つまり、彼らが我々を見る目というのは、スピリチュアルに目覚める人か、そうでないかという目で「仕分け」され、そうではない人だとひとたび「判断」されたなら、物凄い勢いで私たちを排除し、「存在しないもの」のように扱うことを、宣言しているわけです
いやぁ、日頃「ワンネス」だの「あなたはわたし」だの「みんなで進むべき道を進み、ハッピーになりましょう」だのと全体化思想を声高に叫んでいるにもかかわらず、一方で、二極化裁判の末バッサリ排除です。波動の違う目覚めない人達はどうぞ勝手に苦しんでいなさいと言ってるんです。いやはや恐るべき矛盾。


いくら私たちでも、そこまでバッサリと、人を「仕分け」することを正当化することは致しません。
せいぜい、スピリチュアルにハマった人を、何とかこちらの世界に戻そうと無駄な努力をするだけです。あるいはそこまで思わなくとも、何とか「普通の」会話がしたいだけです。
こりゃダメだな、話聞いてくれないな、無駄だな、不快だな・・・極限まで頑張ってみます。

しかし実はその前に、向こうの方から、「あなたは目覚めない人」と仕分けされ、見捨てられてるんですよ。だからこそ、こちらが一生懸命、対話を試みようとしても、聞く耳を持たないわけです。

「スピリチュアルにハマッた友人と決別してしまった」という経験をお持ちの方も大変多いのですが、思い返してみて下さい。その縁は、向こうから切っていませんか?
仮に形の上ではこちらからであったとしても、その以前に、おそらくは無意識的に、心のドアを頑なにシャットアウトして事実上の決別をされているが故に話を聴かず通じず、こちらがやむなく諦めたという場合は、それは、向こうが既に、こちらを「切り捨て」、「いない者として扱って」いたのではないでしょうか。



詰まるところ、「二極化」というのは、「信じる者は、救われる」「信じない者は、救われない」という「宗教」そのものに他なりません。キリスト教では、信者は天国に行かれることになっています。しかし、キリスト教では慈愛の精神を説いており、それは救いを求める者であれば信者でない者に対しても分け隔てなく向けられます。決して、信者でないからと言って、切り捨てたり、ましてや自分の世界にはいないものとして扱うことなど、しません。

ですからその意味で、「二極化」は宗教よりも冷酷なほど自己中心的な思想と言えます


しかも、スピリチュアルが日頃忌み嫌っている「判断」「裁判」を、彼ら自身がお題目のように唱える「二極化」の中でやりまくっているという大いなる矛盾と、「お前が言うな」の苛立ちも加わり、こちらとしては腹立ちの三重奏です。


自分たちの世界で二極化を実感して頂く分には全く害はないのですが、その二極化を実感する時点で我々は仕分けられ、見下されている訳です。「二極化」という名の裁判によって、私たちは「目覚めない人」「ネガティブ意識の人」として追いやられ、排除されている。私たちも鈍感ではないので、彼らの言葉の裏に隠されたそのような意識を感じ取ってしまい、言葉にならない不快感が残ります。

だからこそ、スピにハマった人はみな、人が変わってしまい、皆さん「偉そう」な態度になってしまう。これは多くの人が同じ感想をお持ちでした。

一言で言えば、「何様なんだ」という感じでしょうか。





「スピリチュアルが嫌い」という人には、大きく分けて、三つのレベルがあります。


一つは、スピリチュアルが怪しげで胡散臭く、しかもちょろちょろと目について仕方がないので鬱陶しいと日頃辟易していらっしゃる方。

二つ目は、知人・友人・ご家族など自分に近い方がスピリチュアルにハマり、その交流の過程でいつしかスピリチュアルが嫌いになってしまった方。

三つ目は、ご自身が訳あってスピリチュアルにハマり、全てを見知ってしまったが故にスピリチュアルの嘘に気付き足を洗った方。


これまでは、二つ目のレベルまでの方の「嫌い」な心境を中心に述べてきました。

三つめのレベルの方は、スピ職人を間近でつぶさに見る機会があるので、前提となる「本物でもなければ人格者でもない」というスピ職人の属性を詳細に知り尽くしています。
それだけに、その程度のスピ職人から、偉そうに上からさんざ言われ、言われた内容がことごとく的外れであるにもかかわらず、「目覚めないあなたが悪い」と全責任を自分に押し戻される。しかも有料で。
気付いた時、それはどれほどまでの怒りになるでしょうか。


だから三つ目のレベルの方の、スピに対する嫌悪感が、最も深いのです。


この方達は、スピ思想を受け入れ、二極の「あっち側」になろうと必死だった時代があったことでしょう。内部にいただけあって、スピ職人らスピ漬けになった「スピ・エリート」たちが、スピのエリートになれない者を見下し、排除する様を間近で見、実感していたことでしょう。

二つ目のレベルまででしたら、二極のこっち側に追いやられて見下されている気配を感じた時点で、その人との距離を置くので、傷は浅いのですが、三つ目のレベルの方は、ご自身がその世界に身を置いているので、その「視点」から脱するまで、多くの矛盾に気付きつつ疑問を抱きつつ、スピリチュアルの押しつける思想を何とか自分のものにしようと、極限まで留まります。その間中、彼らから傷つけられ、苦しめられてきているというのに。
その世界から脱してしまえば、自分は「ネガティブ意識」で生きる永遠に目覚めない人になってしまい、今抱えている悩み苦しみも解消しない・・・と思い込まされているので、そこから脱することは容易ではありません。


繰り返しになりますが、スピリチュアルが思考のループから抜け出せない理由は、物事を多面的・多角的・俯瞰的に見ることができず、常に「ポジティブ・ネガティブ軸」、あるいは「気づく・気づかない」の二極で見るからだと以前指摘しました。
このことは、自分を苦しめるだけでなく、人をそのようなフィルターを通して見ることで、周囲の人をも傷つけ、苦しめます。


意外に思われるかもしれませんが、スピ職人はよく、人を責めます。厳密に言えば、スピリチュアルに目覚めることができない人を、こんな風な言葉で、責めます。

「その苦しみは、自分の思考が創り出したもの」
「今の現状は、あなたの心の鏡です」


このような言葉によって、苦しみや上手くいかない現状をその人自身のせいにします。自分はこの言葉によって救われたのだから、あなたもこのように考えれば救われるのだと信じて疑わないので、強い口調で断定的に言うのです。受け止めた方は責められたような思いに囚われてしまいます。スピの「全部自分に還元主義」の弊害です。

「ありのまま受け止めなさい」
「あるがままを感じ、心のままに生きなさい」

このような、一部の人にとっては救いになる言葉が、真に苦しんでいる人を追い込む理由はもう一つあります。
それは、「スピリチュアルが宗教でないフリをする」ということに起因します。


(転載おわり)



記事転載元:スピ団体のカルト化を何とかしたい、めざめちゃんのブログ